大切なお方を亡くされて

あの時ああしてやればよかった こうしてやっていたらきっと喜んでくれたのに。私は何をやっていたのだ。
    亡き人の面影を偲ぶたびに思うのはそんなことばかりで、深い後悔の念と懺悔の心が胸に迫ってくるのです。心にぽっかりと穴が開いて、何をする気も起きない。逆に、何かしていないと落ち着かない。そんな毎日の繰り返しを過ごしておられる方も多いのではないでしょうか。
懺悔というのはよく耳にする言葉ですが、同じような言葉で、慚愧という言葉があります。普通にはただ「恥じること」の意味で使われるのですが、もとは仏教語で、慚の漢字は心を切ると書きます。そして慚愧のきは心を鬼にすると書きます。自らの心に罪を恥じること、他人に対して罪を告白して恥じること。大切な人を亡くした時にそういう心が私たちの心に自然に沸き起こってくるのです。
    しかし親鸞聖人はその言葉をさらにえぐり出します。「無慙無愧のこの身にて」慚と愧の前にさらに無の字が付くのです。自分の事を恥じる事もないような人間であった。恥じることに気づかせていただいたのは、亡き人のおかげであった。という教えの言葉です。「まともな人間になってくれよ。」私達は亡き人からそう願われている人間であったと気付かされた時に、初めて今は亡き大切な人に自然に手が合わさるのです。
               南無阿弥陀仏

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